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2010-06-13

今さらですが『愛のむきだし』(長文)

| 18:50 | はてなブックマーク - 今さらですが『愛のむきだし』(長文) - Beebo’s Juke Box Lounge


♪ぼくのぉ こころをー♪

♪あなたはぁ♪

♪うぅばーいさっったぁ~♪

♪おれは

♪くーぅどーぉ

♪でかい くーどー♪

(『空洞です』byゆらゆら帝国)




ご機嫌いかがですか?beeboです。



デニさん絶賛のこの映画

なかなか見る機会がなく、結局スクリーンで見ることが出来なかったのですが、

先日やっとDVDで見ることが出来ました。




相当のタイムラグではあり、もはや今頃私が叫んだところで

『遅いっ!』と一喝されて終わりなのは判っているのですが

絶賛!!

絶賛!!

絶賛!!

絶賛!!の嵐でございます。





機能不全家庭で育つ二人の若者が

出会い

すれ違い

病み

立ち直り

新たなスタートに立って

もう一度出会い

歩き出す・・・

二人の長い長い旅路が丁寧に描かれています。



成長期に機能不全な家庭で育つということが

どれだけ子供にとって苛酷なことか。

大人のゆがみやエゴを丸呑みし咀嚼し、

それでも何とかまっすぐに育とうとする生命力。

身を切られるような生きる苦しみ。

鎧で心を守れない無垢な二人が本当に痛々しい。



しかし子供の心の力は決して子供サイズじゃないんです。

無限のむきだしの愛。

それが最後に奇跡を呼ぶのです。




深く傷ついた誰かの孤独な魂を癒すのは

無垢な愛の力なのだと、

もう大人になってしまった自分には

たぶん二度と手に入らないだろう力なのだと

切なく胸を締め付けられるような思いで見ていました。




この映画

もっとも印象に残ったシーンがあります。

海辺で、ヒロインのヨーコが聖書の言葉を叫ぶシーン。


主人公のユウが

キリスト教系カルトにはまった彼女を救い出すために、

やむを得ず監禁・説得するのですが、

そこで反撃に出た

ヨーコがユウに向かって叫ぶシーン。



それは聖書の中の言葉で、

いつでも誰でも読める言葉です。

でも、その言葉をどれほど必要としているかによって、

意味や重みというものは

それぞれの人で違ってくるんじゃないかと思います。



今の私がこの映画を見ずに

その言葉を聖書で読んだとしたら

『なるほど・・・私もそんな風に生きられたらいいんだけど・・・』と

感じるだけにすぎないでしょう。



さらに言うと、

私自身、通っていた高校がキリスト教系で

聖書の授業があったりしたのですが、

ヨーコと同じ年頃だった当時も、

その言葉をこれほど切実に必要としたことはありませんでした。

多分私は幸せだったんだと思います。


でも、ヨーコは、

私とは違い、

この言葉を心の奥深くに刻み、

すがって、それを糧にしてやっと生きている。

その切実さ、切迫したギリギリの心のありようが

見ている私を強く揺さぶりました。



この子はこんなに一人ぼっちで愛を求めている。

それなのに、

今、目の前にまっすぐな愛を差し出されても、

それを理解できないし信じることも出来ない。

心から求めているのに

それを目の前に差し出されてもわからない・・・。

見ているこっちが本当に辛くなるシーン。



まっすぐな愛が目の前にあっても

目が曇っていては正しく見分けることができない。

この海のシーンでは、

聖書に書かれた愛の言葉は、

むしろ、カルトにはまり込んだ

頑なな心につける鎧の役割を果たしています。

どんな美しい言葉も、

目が曇っていては、心が病んでいては

それはむしろ害・毒なのです。



それでも、

その子にはその言葉が絶対であるという

のっぴきならない危うさ。

思春期の繊細さ美しさそして悲しさ・・・

そのすべてに私は揺さぶられました。



この映画のもっとも印象的なシーンです。



だいぶ長いですが、

以下にその言葉を引用しておきます。




【コリント人への第一の手紙 13章】


「たとえ、私が

人の異言や、御使いの異言で話しても、

愛がなければ、

やかましい銅鑼や、うるさいシンバルと同じです。」(1節)


「また、たとえ私が

預言の賜物を持っており、

またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、

また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、

愛がなければ、

何の値打ちもありません。」(2節)


「また、たとえ私が

持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、

また私のからだを焼かれるために渡しても、

愛がなければ

何の役にも立ちません。」(3節)


「愛は寛容であり、愛は親切です。

また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、

怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、

すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(4~7節)


「愛は決して絶えることがありません。

預言の賜物ならばすたれます。

異言ならばやみます。

知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、

預言することも一部分だからです。

完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、

子どもとして考え、子どもとして論じましたが、

おとなになったときには、子どものようでいることをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、

完全なものが現れた時には顔と顔を合わせて見ることになります。

今、私は一部分しか知りませんが、

その時には、私が完全に現われているのと同じように、

私も完全に知ることになります。」(8~12節)


「このように、

いつまでも存続するものは、

信仰と希望と愛、この三つです。

このうちで最も大いなるものは、愛です。」(13章)


映画を観てから

改めてこの言葉を久しぶりに読み直すと、

しみじみと染みてくるものがあります。


私自身は

クリスチャンになる道を選択しませんでしたし

おそらく今後もないと思いますが

聖書の言葉は、

時に、

私自身を見つめなおす道標であり、

それは暗い海に浮かぶ灯台の灯りのようでもあります。


そして

この言葉はイエス・キリストが語ったものではなく

信徒が他の信徒に語った

同士に向けたメッセージである・・・というところが

また、私の心に響くのです。



これを読むと、

キリスト教を信仰するかどうかはまったく関係なく、

当時、志を持って生きた人々が

迷いながらも、正しく生きたいと心から望み

自分自身をよくしたい

に祝福されたい

幸せになりたいと切望した

普通の人々の言葉が綴られていると

感じます。


そしてそれは時を越えて今も

ヨーコや私のような『迷える羊』を

照らす微かな明かりになるのだと思います。



それはさておき、

この映画は最後に、

二人が曇りなき心で再びスタートに立ち、

再び出会い

互いが互いの愛の存在に気づいたところで終わります。

そのときの二人の、

可愛い屈託のない笑顔が本当にグッときました。

色んな事があったのに、

まるで何もなかったみたいな天真爛漫な笑顔。

ホントに、ホントによかった・・・!!!

その笑顔にズガーン!とやられちゃいました。



オバチャン(≧д≦)ナキッパナシ


あーいい映画だったなー。

あらためて、スクリーンでもう一度・・・。



だから遅いって!